戦前から地続きの戦後を読む
友人と、戦後社会の枠組みがどう決まったかを知るなら何を読めばいいか、という話になった。自分も学生時代からこのあたりの本を少しずつ読んでいて、面白かったものがいくつかある。
まず、占領期を扱ったものでは、福永文夫『日本占領史1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』と、五百旗頭真『占領期 首相たちの新日本』。福永の本は、東京とワシントンに沖縄を加えた三つの場所から占領を描く。同じ数年間でも、見る場所によって話がずいぶん変わるのが興味深い。一方で五百旗頭の本が追うのは、敗戦直後の5人の首相がGHQとどう渡り合ったかで、こちらは人の駆け引きとして面白く読めた。
五百旗頭の本に出てくる首相のうち、占領の終わりまで政権を担ったのが吉田茂で、彼については原彬久『吉田茂』を読んだ。その後の自民党政治については、中北浩爾『自民党 「一強」の実像』。また、有馬哲夫『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』は、右翼の大物がアメリカの情報機関とどう関わっていたかを米側の公文書から追った本で、表の政治史には出てこない部分が見えてくる。
最近いちばん考えさせられたのは、かつて東大全共闘の代表だった山本義隆の『テクノファシズムと国家総動員』だ。戦前の商工省が科学技術を動員し、重工業化と電力の国家管理を進めた体制を、山本は「テクノファシズム」と呼ぶ。軍部は敗戦で消えたものの、商工省は戦中の再編を経て通産省になり、産業政策の担い手として残る。軍需を担った企業も技術や設備の多くを持ち越し、高度成長を支える側に回ったという。戦うための力が、そのまま国際競争のための力に移った、というのが山本の見立てだ。
読み物として、純粋に楽しい本だった。電力の国家管理という一見地味な切り口から、官僚や技術者、企業が一つの目的に向けて組織されていく過程が追える。
この本は、戦時の動員が戦後社会の型をつくったという議論の系譜に置くと、さらに読みどころが増える。山之内靖の総力戦体制論によれば、総力戦が国民を統合し社会を合理化したことで、戦後の豊かな社会の基礎は戦時にすでに用意されていた。敗戦で社会が作り直されたように見えて、仕組みの多くはそこから続いている。経済の側では、野口悠紀雄が同じ構図を「1940年体制」と呼んだ。給与からの源泉徴収や、銀行を中心にした間接金融など、戦後の日本経済を支えた制度の多くが戦時に生まれている。
山本は、その議論において電力と技術という切り口を提供している。1938年の電力管理法で国家管理が始まり、翌年には全国の発送電を担う日本発送電がつくられた。合理的な計画を信じて動いた官僚や技術者の仕事は、戦後の通産省と重工業の関係の土台にもなった。
自分がずっと関心があるのは、この戦後の仕組みをどう改良しながら「長寿命化」させていくか、そもそもこの仕組みにどれくらい寿命が残っているのか、ということだ。戦後レジームという言葉は、抜け出すべきものか否かとして語られることが多い。けれど、総力戦から引き継いだ部分も含めて、この社会は良くも悪くも回ってきたし、明日から別の仕組みに取り替えられるものでもないだろう。
インフラの長寿命化は、点検から始まる。橋なら、どこがどう傷んでいるかに加えて、いつ、何のために架けられたのかを確かめる。時には架替えも必要かもしれない。自分は直す側の人間ではないけれど、毎日この仕組みの上で暮らしている以上、どれがいつ、何のために組まれたのかくらいは知っておきたいなと思う。